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台湾・基隆編 6。

「憲法9条をノーベル平和賞に」 戦争をしない日本を世界に広めましょう。


「戦争を考える」 特集。  一家で移住、父ら4人失う。
 「新天地への憧れ。そして何より家族と離れたくなかった」 旧満州(現中国東北部)への移住が国策として勧められていた1939(昭和14)年3月。 当時13歳だった中込敏郎さん(87)は父、母、姉、3人の妹と共に故郷の山梨県から満洲・千振(現中国黒竜江省樺南県)に渡った。 「今の農業経営が大変なら援助する。 無理して行くことは

ない」と叔父は反対したが、父は 「自分たちで生活を切り開きたい」と押し切った。 しかし、移住して1年後、慣れない開拓生活から父が病死。 中込さんは開拓活動には従事せず、現地の小学校へ通い、省立畜産学校では朝鮮人、中国人とともに寮生活を送った。 しかし、44(同19)年3月、大学へ入学すると、人種差別を目の当たりにする。 寮内では日本人とそれ以外の人とで分けられ、米の配給は日本人のみに許された。 大学の日系人の定員の

ほとんどが新たに日本から留学してきた者たち。 彼らが当然のように人種差別をすることに中込さんは強い違和感を覚えた。45(同20)年8月9日、ソ連参戦で中込さんら学生たちは部隊を編成。臨戦態勢の中で15日の終戦を迎えた。奥地から避難してきた難民たちは新京(現長春)の収容所に入れられた。 劣悪な環境で感染病が流行し、帰国を決めた人たちも港へ向かう途中で地元の暴徒に襲われた。 無事帰国できたのは開拓団2000人のうち半数

ほど。 中込さん一家も、姉妹たちが次々に病気にかかり亡くなり、46(同21)年7月、約7年ぶりに祖国の土を踏んだ時には母と妹と中込さんの3人だけになっていた。 帰国からほどなくして、昔の仲間とともに、満州での開拓地と同じ名前が付けられた新しい千振(那須町)の住民となった。 しかし当時そこは竹の茂る満州以上の未開の地。 開墾作業は困難を極めた。 80人ほどでの共同生活では、もめごともあったが、千振開拓団の「千振一家の精神」

という共通認識によって乗り越えた。 その精神は、千振開拓農業協同組合になった現在も受け継がれている。 協同組合の組合長を務め、子2人、孫2人に恵まれた中込さん。 「戦争により家族をはじめ、多くのものを失ったが、今振り返ると、開拓人生に悔いなし」 と締めくくった。  旧満州千振開拓団の体験談・中込敏郎さん(87)の実話。

『台湾・中世記念堂』 2。
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by nobuyasu27 | 2014-08-31 10:00 | 台湾・基隆編
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